賢治のことば
『おきなぐさ』と<全天パノラマ>
『おきなぐさ』では野原に咲く二本の花が、春の野原で生き物たちに囲まれて咲いていて、
やがて風にのって銀色の房を飛ばして散ってゆくところが描かれています。
ただ美しいのでなく、お話の中に、どこへでも行ける自由な心がありました。
日常の中でも、表現をするときにもその心にのっかると、ひょいっと飛べます!
うずのしゅげを知っていますか。うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれていますが
おきなぐさという名は何だかあのやさしい若い花をあらわさないようにおもいます。
(中略)
ごらんなさい。この花は黒繻子ででもこしらえた変わり型のコップのように見えますが、その黒いのは
たとえば葡萄酒が黒く見えると同じです。この花の下を始終往ったり来たりする蟻に私はたずねます。
「おまえはうずのしゅげはすきかい、きらいかい。」
蟻は活発に答えます。
「大すきです。誰だってあの人をきらいなものはありません。」
「けれどもあの花はまっ黒だよ。」
「いいえ。黒くみえるときもそれはあります。けれどもまるで燃えあがってまっ赤なときもあります。」
「はてな、お前たちの眼にはそんな具合に見えるのかい。」
「いいえ、お日さまの光の降る時なら誰にだってまっ赤に見えるだろうと思います。」
「そうそう、もうわかったよ。お前たちはいつでも花をすかして見るのだからな。」
(中略)
春の二つのうずのしゅげの花はすっかりふさふさした銀毛の房にかわっていました。野原のポプラの
錫いろの葉をちらちらひるがえしふもとの草が青い黄金のかがやきをあげますと、その二つのうずのしゅげ
の銀毛の房はぷるぷるふるえて今にも飛び立ちそうでした。
そしてひばりがひくく丘の上を飛んでやって来たのでした。
「今日は。いいお天気です。どうです。もう飛ぶばかりでしょう。」
「ええ、もう僕たち遠いとこへ行きますよ。どの風が僕たちを連れていくかさっきから見ているんです。」
(中略)
「ええ、ありがとう。ああ、僕まるで息がせいせいする。きっと今度の風だ。ひばりさん、さよなら。」
「僕も、ひばりさん、さよなら。」
「じゃ、さよなら、お大事においでなさい。」
きれいなすきとおった風がやって参りました。まず向こうのポプラをひるがえし、青の燕麦に波を
たててそれから丘にのぼって来ました。
うずのしゅげは光ってまるで踊るようにふらふらして叫びました。
「さようなら、ひばりさん、さようなら、みなさん。お日さん、ありがとうございました。」
そしてちょうど砕けて散るときのようにからだがばらばらになって一本ずつの銀毛はまっしろに光り
羽虫のように北の方へ飛んで行きました。そしてひばりは鉄砲玉のように空へとびあがって鋭い短い
歌をほんのちょっと歌ったのでした。
私は考えます。なぜひばりはうずのしゅげの銀毛の飛んで行った北の方へ飛ばなかったか、まっすぐに
空の方へ飛んだか。
それはたしかに二つのうずのしゅげのたましいが天の方へ行ったからです。そしてもう追いつけなく
なったときにひばりはあの短い別れの歌を贈ったのだろうと思います。
そんなら天上へ行った二つの小さなたましいはどうなったか、私はそれは二つの小さな変光星に
なったと思います。なぜなら変光星はあるときは黒くて天文台からも見えずあるときは蟻が言ったように
赤く光ってみえるからです。
このお話では蟻が地面からおきなぐさを見上げるところ、空には風が吹き雲が流れ、
ひばりがそこから舞いおり、また舞い上がって飛んでゆく世界があり、広い自由自在な、
360度全天のみえる感じがします。
子供の小さかった頃に、「おかあさんといっしょ」という番組で、子供と一緒にTVの前で体操を
しました。「小さく小さく小さくなあれ 小さくなってアリさんになあれ
大きく大きく大きくなあれ 大きくなって天までのぼれ あっ雷さまだ!」と、
ここで雲の上からまっさかさま。こんなに体も心も自由であったらいいです。体は地べたを這うことは
できても空はとべませんが、気持ちはそうありたいです。
けれど、なかなか現実の生活では難しくて色々なことにがんじがらめです。
話は飛びますが、舞台の音楽を作っているときに、なかなかうまく視野が開けずもんもんとする
ことがよく(しょっちゅう!)あります。
そういうときに、ぐちゃぐちゃの霞のかかった中でもんもんともがき続けていると、
あるとき不思議にぱあっと視野が開けて自由になる、ということがあります。
まるで全天360度パノラマ展望みたいな感じです。そういうとき、心も(たぶんからだも)とても自由です。
同じ芝居を作っている友人(役者の)が、あるとき同じようなことを言っていました。
役作りで前がみえず苦しんでいるときに、何かのきっかけで、ふっと「何でもあり」の世界が開けて
自由になるんだ、と。
自由な気持ちとからだから生まれたものは、実際の舞台の上で使われたときにも、想像力が全天パノラマです。
そして宮沢賢治の世界はそれが常時、360度全天パノラマ、という感じなのだと思います。
空も宇宙も、地面もその下も、鉱物も植物も動物もみんなが語りかけてくる世界。
同じような言葉が、賢治の「注文の多い料理店」の宣伝文の中にあります。
そこでは、あらゆる事が可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従えて
北に旅することもあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。
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